日ハム相手に連敗。そしてオリックス相手に又連敗。

例年らしさが戻ってきてしまった。プレイオフやら日本シリーズのスケジュールを密かに考えさせられた先週が懐かしい。
コメントも付けられないような試合展開である。ここは原点に立ち戻ってロッテファンであるということはどういうことなのか、という難しい事を書いてみる。
 以下はダカーポ531号に掲載されていた人生相談の引用である。長くなるので端折って引用してみる。
相談者
私は年の初めに3つの誓いを立てました。「毎日1冊の本を読む」「英単語を毎日10個おぼえる」「腹筋運動を100回」。ところが三日坊主で終わってしまった。不惑を過ぎてもせいちょうの見られないこの人格をだんだんと笑えなくなってきました。根気ってどう養うのですか?

回答者(TETSUYAという方である)
三日坊主は情けない事ではない。志がある人にこそそれは存在するから。少なくともなにもしないよりは立派です。ただ飽きっぽいという性格は問題です。しかも性格は直りません。むしろその性格を利用しましょう。熱しやすい気質を最大限爆発させ3日でケリがつくことだけをつづけざまにやっていきましょう。(7個のする事を列挙後)どれもこれも詩的な活動ばかりで盛り上がる一年になりそうですな。  人間はこういう事の熱意を通じて計画から解き放たれた潤いのある生活を手に入れていくのでしょう。前向きなことや役に立つことを三日坊主で終わらせているのは目先の損得への執着をおおいなるあなたの心が拒否しているからに他なりません。自信を持って今年も無駄飯を食いつづけてください。
 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
この回答の中で詩的な活動として挙げられた中には
○知り合いのあだ名を考えてそれを電話で告げる
○山手線の土手に花の種をまく
○いじめられっこにぬんちゃくを教える。
などと並んで
千葉ロッテを応援する。があったのである。

ロッテファンになるのは簡単な話である。
まずロッテはお菓子会社の宣伝目的で所有されている。
たまにコアラのマーチやキシリトールガムを買い、
球場に押しかけいくばくかのお金を落とし、
ファンクラブにてユニを作れば簡単にだれでもなれる。
学歴もファン歴も関係ない。巨人ファンだった私でも
えらそうにファン面して駄文を書いたり、ロッテファンの集まるサイトに書き込みをしたりしている。簡単である。

しかし今日のような試合が続く中ファンをしているというのは大変なストレスを抱える事になる。勝利を見届けて安堵するのが目的ならロッテ応援は難しい事である。野球応援に功利性を求めるならそういう人には相応しい球団がきちんとある。
ロッテファンを継続するのは難しい事ではなかろうか?三日坊主の性格の人が出来る事であろうか?

それでも私も私の友人も長くファンを続けている。
功利性を離れた大いなる心だけでない。
多分「ロッテの神」というものがいたらその神が私の心を釣り上げたからではなかろうかと思う。

かつてヨーロッパにて宗教改革の嵐が吹き荒れたとき神をいかに考えるかがカトリックとプロテスタントの分岐点となった。
カトリック「神に対して信心が深ければ神は応えてくれて、魂を救ってくださる。」
プロテスタント「神は自分の意志で救うものを選びたまう」
 つまり魂の救済が行われるのは人間サイドか神サイドか?がポイントである。救済されたと感じる心情を得るのは自分からなのか、他物に衝き動かされてなのかという事なのである。

私のロッテファンの友人R君曰く
「ロッテは人を選ぶ。」
もう一人の友人 D君曰く
「狂っているからこそのロッテファンであります。」
この言葉は同じ事を語っているのだと愚考する。

「こんな割の合わない事なんでやっているのだろう」と愚痴りつつも
私は何かに動かされるプロテスタントのように応援をしている。

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